自治体は、本当に自治体か
民主主義と自治のあいだにある、大きな溝について
猪俣菜央|2026年4月
「行政は、変えられるのか」というのが、ずっと追いかけている問いだ。
20代で埼玉県庁に入ったのは、ある意味研究者としての動機からだった。
行政学を専攻していたから、行政組織が構造的に問題を抱えていることは知識として分かっていた。
変えることができるかを、内側から確かめたくて入庁した。
介護保険、副知事秘書、企画総務課——いくつかの部署をまわるなかで見えてきたのは、やる気を持って入庁した人たちが少しずつ「ことなかれ主義」に変わっていく様子だった。問題は人ではなく仕組みにある。そう確信しながら退職した。
その後は、専門人材の流通支援に取り組んだ。組織に外部のプロが入れば、閉じた「当たり前」が問い直されると考えたからだ。さいたまの見沼田んぼエリアでは、不動産仲介の会社を立ち上げようとしている。「自分の意志で暮らしを選べる人」をもっと増やしたい。
そして今、大学院で地方財政・税制を研究している。
組織改革だけでは足りない、と気づいたからだ。その理由を、ここで話したい。
一、民主主義と自治は、別物
「民主主義」と「自治」は、しばしば似た文脈で使われる。だが、この二つは本質的に別物だ。
民主主義が答える問いは「誰が決めるか」だ。多数派、あるいは多数派が選んだ代表が決める。意思決定の手続きの話であり、国家スケールでも機能できる。
自治が答える問いは「誰がその影響を受け、誰が責任を持つか」だ。決定と、その結果を引き受ける人が、同じであること。距離の話であり、当事者性の話だ。
この違いを組織論で考えると、もっとはっきりする。
民主主義は「統治機構の手続き論」だ。統治する者と統治される者の分離を前提に、その権力移譲を正統化する。
自治は「組合という組織形態」だ。協同組合をイメージするとよく分かる。メンバーが組合であり、組合がメンバーのためにある。統治する者と統治される者が分離しない。意思決定の正統性は「代表に委任した」からではなく、「自分たちが当事者だから」にある。
民主主義の手続きがある場所に、自治の実質がない。これが、今の日本の地方自治の問題だと思っている。
二、「自治体」という名の統治機構
日本国憲法は第92条から第95条で地方自治の根拠を定めている。「地方自治の本旨」として、住民自治(住民が自らを治める)と団体自治(地方公共団体が国から自律して存在する)の二原則が確立されている。
だが、実態はどうか。
地方自治体の歳入に占める地方交付税・国庫補助金の割合は大きく、多くの自治体は財政的に国に依存している。
使途が縛られた補助金、国の方針に沿った事業計画、許認可権を握る省庁との折衝——「自治体」という名前はついていても、統治機構の末端として機能している。
私はこれをフランチャイズと呼んでいる。本部(国)の方針に従い、予算を配分してもらって動く加盟店(自治体)。
地域の個性や住民の意志よりも、本部のルールが優先される構造だ。
これでは、いくら首長を民主的に選んでも、自治の実質は生まれない。民主主義の手続きはある。
でも、組合としての自治体ではない。
三、お金には色がある
これに気づいたのは、行政の外に出てからのことだった。
専門人材の流通支援の仕事で、いくつかの自治体に組織改革の提案をした。「わかる。でも難しい」という言葉を、何度も聞いた。
同時期、経営に携わるなかで、資本政策の現実を間近で見た。誰の出資か、どんな条件か——お金の出所が変わると、組織の優先順位が根本から変わる。お金の「色」が、組織の行動を決める。
これを地方財政に引き直したとき、見えてきたことがある。
国からの交付金は「国の優先事項を実施するためのお金」だ。地域の住民が納めた税金は「地域住民に説明責任があるお金」だ。同じ1万円でも、色——どこから来て、誰に対して使い道を説明すべきか——が、組織のインセンティブを根本から変える。
財政学では「フライペーパー効果」と呼ばれる現象がある。補助金はもらったところに張り付いて、地元の税負担軽減には使われない傾向がある。お金の色が、使い方を規定する。
組織を開くだけでは足りない理由が、ここにある。財源の色が変わらなければ、組織の行動は変わらない。
四、ドイツとスイスが示すもの
これは理想論ではない。実例がある。
ドイツの連邦参議院(Bundesrat)は、各州(Land)の政府が代表を送り込む議院だ。州首相や担当大臣が直接出席し、州政府として投票する。連邦立法のうち州に関わる事項には、この連邦参議院の同意が必要だ。
重要なのは、連邦制の廃止が憲法改正でも不可能だという点だ(基本法第79条3項)。「自治体が国家の基礎であること」を、最高法規が永久に保障している。
スイスはより急進的だ。26のカントン(州)がそれぞれ独自の所得税率を設定する。全体の政府支出のうち、連邦が担うのは36%ほどで、残り64%がカントンと市町村だ。
どちらの国も、共通の発想に立っている。自治体が主体であり、国家はその連合体として統合する。財政の論理が、下から上に流れている。日本が今やっていることは、その逆だ。
五、組織改革と財政改革は、なぜ両輪か
目指したいのは、この二つを同時に変えることだ。
課税自主権を地方に持たせ、地域住民への説明責任を財政の基本原理にすること。そして、市民が行政に関わる経路を増やし、専門人材が組織の外から入れる仕組みをつくること。
どちらか一方では足りない。
財政が自立しても、組織が閉じていれば新しいお金の使い方が生まれない。組織が開いても、財源の色が変わらなければ決定権がない。
自治体が本当に「自治体」になるとは、この両方が揃うことだと思っている。
六、国家を、持続可能にしたい
なぜ自治体の話をするのか、と問われれば、答えは一つだ。国家を持続可能にしたいからだ。
財政赤字の拡大、人口減少、社会保障の重さ——これらは制度設計の問題でもあるが、根本はもっとシンプルだと思っている。「国に養ってもらえる」というマインドを、国民も、自治体も、持ち続けていることが問題の核心にある。
成長が必要だ。でも富国強兵ではない。
一人ひとりが自分のミッションをしっかり生きることが、成長率を上げることにつながる——そう信じたい。上から「この産業を伸ばせ」と決めるのではなく、それぞれの人が本気で動いている状態の総体が、経済の活力になる。
見沼田んぼで義務でなく動く人たちが田んぼを続けている。フリーランスとして自分のスキルで動く人が組織を変えていく。市民が自分ごととして行政に関わると、まちが変わっていく。これらは全部、同じことの違うスケールだ。
自治体が本物の自治体になることは、その基盤をつくることだと思っている。財政が自立し、市民が自分で考えて動ける構造ができれば、分散した活力が生まれる。その総体が、持続可能な国家の姿だ。
政治家が自分や利権を守るのではなく、国家の持続可能性を議論できる場に変わることも、必要だ。それは制度だけの話ではなく、その場に関わる人のマインドの話でもある。
七、小さな実践から
見沼田んぼで、ここ数年、農作業を手伝っている。
東浦和駅からすぐの場所に農地がある。さいたま新都心から2〜3km、首都圏のど真ん中に、1,260haの農地帯が残っている。都市のすぐそばにこれほどの農地があるのは、ある種の奇跡だと思う。
作業があるとグループラインに連絡がくる。行ける時に、行きたい時に行く。行けなくても謝らなくていい。
義務で来る人がいないから、来た人が気持ちよく動ける。
これは小さいけれど、自治の原型だと思っている。誰も強制しない。でも誰かがいつも動いていて、田んぼは続いている。
同じ問いは、仕事の場でも続いてきた。
フリーランスという働き方が、もっと当たり前になってほしいと思って制度づくりに関わった。正社員という形に縛られず、自分のスキルと意志で働く選択肢が、制度によって支えられるべきだと思ったからだ。組織のマネジメントでは、部下が自分の「本当にやりたいこと」を思い出して、それを仕事のなかで叶えていける環境をどうつくるかを考え続けた。
場所でも、仕事でも、組織でも——「人が自分の意志で選んで動ける環境」をつくることが、ずっと自分のテーマだったと気づく。
「自治体」は制度の話だ。でも自治は、もっと日常の話でもある。
大きな制度を変えることと、目の前の田んぼで一緒に働くことは、私のなかではつながっている。さいたまを、そのための実践の場にしたいと思っている。
筆者略歴
猪俣菜央/さいたま市在住。
minolibera 代表として、暮らしと働き方の選択肢を増やす事業(不動産仲介、業界・制度づくり、組織開発)に取り組む。
ITフリーランス支援機構 常務理事、さいたま市都市農業審議会 委員。
一橋大学国際・公共政策大学院(公共経済コース)にて地方財政・税制を研究中。